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D.A.ノーマン 著 野島久雄 訳 誰のためのデザイン?認知科学者のデザイン原論 | ||
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(90.1.25.) 4-7885-0362-X 新曜社認知科学選書
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四六判
456頁 定価3465円(税込) |
MITの博士でさえ戸惑う悪しきデザインの例,例,例…。日常の道具から巨大装置まで,使いにくく,ミスを生みやすいデザインが満ちあふれているのはなぜか。それをどう改善すべきか。第一級の認知心理学者がユーモアたっぷりに論じた痛快な本。
◆書評 |
◆目次 日本語版への序文 まわりを見回してみてください。私たちのまわりは、暮らしを過ごしやすく、より楽しいものにしてくれるたくさんの工業製品であふれています。本、台所用品、電話、そして、テレビ、ゲーム、家庭用や事務用のコンピュータ。ところが、その多くが私たちの暮らしのいらいらの種となっているようです。暮らしは、過ごしやすくなるどころか、難しくなっています。あなたの暮らしは必要以上に複雑なものとなっているようです。あなたの暮らしは、必要以上に複雑なものとなってはいませんか。洗濯機を使おうとして困ったことはありませんか。電子レンジの全機能を使いこなしていますか。VTRの録画予約をすることができますか。こうした難しさで困ってはいませんか。 上野駅からJR線を経由して私鉄の駅へ行くための直通切符を買おうとしているとしましょう。そのためには、何をしたいのかを前もって正確に分かっていなければなりません。でも、上野駅へは初めて来た人の場合はどうでしょうか。どう乗り換えたらいいかは非常にわかりにくいのです。ある一定の金額の切符専用の発券機もありますし、五〇〇円玉が使えない発券機もあります。同じ駅にあっても、発券機によっては動作の仕方が違ったり、切符を買うために必要な情報を異なる順序で聞いてきたりします。なにもかも、本来あるべき状態よりもずっと難しくなっていて、たいていの人は対応できないのです。正直に言えば、これはまったく正気の沙汰ではないと思います。どうしてこんな状態に我慢していなければならないのでしょうか。デザイナーには、こうした機械を使うユーザーのことなど目に入っていないようです。 居間を見てみましょう。日本では多くの家庭の居間にオーディオセットとビデオセットが置いてあります。とてもすばらしいものです。でも、このすばらしさの大部分がまったく使われていません。そしてこのような装置が家庭の中にのさばっていて、狭い日本の家庭の居間で大きなスペースを取っています。こうした機器はますます複雑化しています。それぞれリモコンが付き、そのリモコンは他のリモコンとは異なるのです。なんという混乱でしょう。 もう事態を変えるべきです。消費者は反乱を起こすべきときです。私たちの暮らしがこんなに複雑である必要はありません。この問題はあなたのせいではありません。このひどい製品を作ったデザイナーとメーカーのせいです。とはいえ、あなたのせいでもあります。こんなにいらいらさせるような製品をなぜ買いつづけたのでしょう。 この本の目的はデザインの問題に対するあなたの意識を高めることにあります。そして、ものを改善することに対しても興味をもってほしいと思います。望むらくは、この本がきっかけで、暮らしに関するさまざまな問題に対して、そして人が何を必要としているかに対してあなたが敏感になって、その結果として暮らしを変えるようであってほしいと思います。さらには、その過程で、人の心に関する新しい科学である認知科学の原則のいくつかを学んでほしいと思います。 この本に出てくる例のほとんどはヨーロッパとアメリカのものです。でもひとごとだと思ってはいけません。同じ問題が日本にもあるのです。今や日本はハイテク製品の製造国としては世界のリーダーです。ですから、そういう製品をつかうごく普通の人のためにデザインをしたり、使いやすく、使って楽しいものを作ることにおいて先導的な役割を果たすべき責任もあります。現在、日本は技術においては先を走っています。しかしながらユーザの必要とするものを考慮するという点においては、ヨーロッパやアメリカの先導的なメーカーに比べ、はるかに遅れています。今こそ科学としての心理学に真剣に耳を傾けるべきときです。ちょっとした手助けでみんなの暮らしがより楽しいものになるのです。 私の研究仲間である野島久雄さんがこの本『誰のためのデザイン?』を日本語に翻訳することに同意してくれ、新曜社が出版してくれたことを喜んでいます。 何度にものぼる日本訪問は、楽しくためになるものでした。そのために御尽力いただいた数多くの日本の友人に感謝いたします。とりわけ、三宅芳雄博士と三宅なほみ博士がいつも快く迎えてくれたことに感謝します。今私は、東京の三宅夫妻の家の居間にあるコンピュータで、私が書いたようなさまざまな問題に取り巻かれつつ、この序文を記しています。奇妙な操作法の水道の蛇口もあるし、居間にはオーディオアンプ、ラジオチューナー、VTR、レーザーディスクプレーヤー、テレビ、電子ピアノの鍵盤、コンピュータ、そしてもちろん、任天堂のファミコンもあります。どれもとても素晴らしいけれども、同時に不可思議で、混乱を招き、いらいらもさせるもので、本書の完全な見本集ともいうべきものなのです。 1989年9月 東京にて ドナルド・A・ノーマン はじめに この本は、私が長い間書きたいと思っていた本である。しかし、そのことにはなかなか気づかなかった、長いこと、私はドアに正面衝突したり、水道の蛇口の使い方がわからなかったりとか、日常生活におけるちょっとしたことにつまずき続けてきた。そんなときには、「私が悪いんだ。私にはこういうのを使う才能がないんだ。」とつぶやいたものだった。しかし、私が心理学を勉強して、他の人たちの行動を観察するようになってみると、これはどうやら私だけの問題ではないということに気づいたのである。他の人たちが困難だと思うことは、そっくりそのまま私にとっての問題でもあった。そして、誰もが自分が悪いとも思いこんでいるようなのである。いったい、世界中の人が道具を使う才能を欠いているなどということがあるのだろうか。 だんだんと真実は明らかになってきた。私は、ヒューマンエラーや産業事故の研究をするようになった。そしてわかったのは、人がいつでも不器用に行動するとは限らないということだった。いつでもエラーするわけではない。人がエラーをするのは、その物がよく考えられていなかったり、デザインが悪かったりするときなのである。それなのに、いまだにこの世の中で起こったことはみなヒューマンエラーのせいであるとされているようだ。飛行機が墜落すれば、「パイロットのエラーが原因です」とレポーターは報告する。ソ連で原子力発電所に重大な問題が起これば、「原因はヒューマンエラー」と新聞は書き立てる。船が衝突すれば、「ヒューマンエラー」が公式に原因として認定される。しかし、この種の事故をよくよく分析してみれば、これらの報告は事実に反しているということがわかる。アメリカのスリーマイル島原子力発電所で起きた有名な事故では、問題が問題を見誤った操作員が悪かったということになっている。しかし、あれはヒューマンエラーだったのだろうか。「問題を見誤った操作員」という語句に注目してほしい。これは、まず問題があったこと、その問題とは一連の機械の故障であったのだがそのことをはしなくも示している。そうだとしたら、なぜ装置の故障が真の原因とされないのだろう。問題の見誤りにてついてはどうだろう。なぜ、操作員は原因を正しく同定できなかったのだろうか。また、本来あってもしかるべき計器がなかったことや、操作員は以前と同じことをやったのであって、そのときにはそのときにはその操作はもっともで適切なものであったというような事実についてはどうだろうか。このときは、圧力開放弁が閉じなかった。しかし、操作員は閉めるための正しいボタンを押していて、さらにモニターランプはちゃんと弁が閉じていることを示したということについてはどうだろう。装置をあと二つ(とはいえ、コントロールパネルの後ろにだが)確認して、モニターランプの方が誤りであったことに気がつかなかったからといって、どうして操作員が責められなければならないのだろうか。実際、操作員はそのうちの一つはチェックしたのである。これをヒューマンエラーと言えるのだろうか。私にはデザイン自体にそもそもエラーがあった上に、装置の故障が重なったもののように思える。 それでは、私が日常生活において、簡単なものをうまく使えないということについてはどうだろうか。私は複雑なものだって使える。コンピュータや電子機器や複雑きわまりない実験室の装置にかけては、私は専門家であるといっていい。その私がどうしてドアや電灯のスイッチや蛇口に困ってしまうのだろうか。何百万ドルもするコンピュータ設備を使いこなせるのに、家にある冷蔵庫が使いこなせないなどということがあるだろうか。私たちが自分自身を責めている一方で、本来俎上にのぼるべきデザインの誤りが見過ごされている。さらに、数え切れないほどの人々が自分には道具を使う才能がないんだと思いこまされているのである。今こそこのような情況を変えねばならない。 そのために私は、このPOET、The Psychology of Everyday Thingsを書いた。毎日使う道具に繰り返し繰り返しいらいらさせられている私の知識、この二つから生み出されたのがこのPOETである。この経験と知識からPOETは生まれるべくして生まれた。それは、私自身にとって、そして私のいらいらを落ちつけるためにはどうしても必要だったのである。 このようにしてこの本はできあがった。お話の部分もあり、科学的なデータにもとづくところもある。堅苦しいところもあり、楽しんでもらえるとこともある。これがPOETである。 謝辞 最初にPOETの構想を立て草稿を書いたのは、サバティカル制度でカリフォルニア大学サンディエゴ校から離れて、英国のケンブリッジに滞在していたときだった。ケンブリッジでは、私は英国医学研究協議会の研究所である応用心理学研究所(APU)で研究を行っていた。 APUの皆さんに歓待していただいたことに感謝する。彼らは、この本のトピックに関係する応用心理および理論心理に特に長けた人たちだった。彼らはマニュアルや警告音やコンピュータシステムなどに関して、世界でもよく知られた専門家たちなのに、デザインという点から見ると欠点だらけの環境の中で働いていた。ドアは開けにくく、開けば開いたデ手に強くぶつかってしまうようなしろものだった。デザインという観点から見たときにありとあらゆる悪い点が、ユーザの中でも最も知識のある人たちのいるとことに詰まっているのだった。この完全ともいえる取り合わせには笑ってしまった。もちろん、本書を読んでいただければわかるように、私の大学や研究所にもそれなりの悪いところがあるのだけれども。 本書で私が主張した主な点は、私達が持っている日常生活に関する知識の多くは、頭の中ではなく、外界の外にあるのだということである。これは面白い主張であると同時に認知心理学者にとってみれば、難しい主張でもある。いったい知識が外界に存在するということは、どういうことを意味しているのだろう。知識は解釈されてできるもので、頭の中にしか存在し得ない。確かに、情報ならば外界に存在するということがあうる。しかし、知識が外界に存在するということはありえない。もちろん、知識と情報の区別はあまりはっきりしたものではない。言葉遣いを少し厳密でなくしてみよう。そうすれば、この問題がもう少しよく見えてくるだろう。人は、ものの配置や置き場所、文書、他の人が持っている情報、ある社会において作りだされたもの、、文化の中や文化によって媒介される情報に依存している。たくさんの情報がつまっているのは世界の中であり、頭の中ではない。この点に関しては、何年もの間、このラホイヤにあるカリフォルニア大学サンディエゴ校での認知社会科学グループの卓越した人々と、何年にもわたって議論と相互交流をくりかえしたおかげで、私の理解は深くなった。・・・・・・ 最後になるが英国のAPUでは、アメリカから滞在中のもう一人の客員教授であるデューク大学のディビット・ルビンに会った。彼は叙事詩の再生記憶についての分析をしていた。これは、長くて巨大で驚異的な記憶力のなす離れ技とでもいうべきもので、吟遊詩人たちは、この記憶にもとづいて何時間にもわたって詩を歌うのである。ルビンは、このすべてが記憶力のたまものなのではないということに私に示してくれた。情報の大部分は外界にあるのであって、すくなくとも話の構造や韻律、人々の生活の仕方のなかにあるのだというのである。 私の以前の研究は、コンピュータを利用する上でどんな困難があり、これを簡単にするためにはどうしたらよいかということであった。コンピュータを詳しく見れば見るほど(いや、コンピュータだけでなく、飛行機や原子力などの現代社会における新たな神々もそうだが)、これらのものが他のものと少しも異なっていないということがわかってきた。もっと簡単な日常の道具と同じような問題をもっているのである。そして、日常の道具はたくさんあるだけにもっと問題なのである。とりわけ、人は簡単なものを使おうとぢて使えないと自分が悪いと思いこんでしまう。悪いのは使う人なのではなく、そのものを作ったデザイナーと製造者たちなのであるが。・・・・・・ 第1章 毎日使う道具の精神病理学 DEC(デジタル・イクイップメント株式会社)の創立者で今でも現役の経営者であるケネス・オルソンは年次株主総会で、会社の電子レンジを使ってカップ一杯のコーヒーを温める方法が分からないと告白した。 これを理解するには工学士の資格が必要です 最新式のデジタル腕時計を買った人が、首を何度も振りながら私に、「これを使うためには、MITの工学士号が必要だね」と言ったことがある。実をいうと、私はMITの工学の学士号をもっている。(ケネス・オルソンは二つももっている。それなのに電子レンジの使い方がよくわからないのだ。)だから、1、2時間もあればその腕時計の使い方は分かるだろう。しかし、どうしてそんなに時間がかかるのだろうか。私はこれまでに、洗濯機やカメラの機能のすべてを使いこなしていない人や、ミシンやVTRをどう操作したらいいかを理解できない人や何回やっても使おうとするコンロのバーナーとは違う方のバーナーの火をつけてしまう人など、たくさんの人に会って話を聞いたことがある。 どうして私たちは、毎日使っているものに対する不満に目をつぶっているのだろうか。使い方すら分からないものや、きれいにプラスティックのパッケージで包装されているが開封できそうもない品物、人をまごつかせるドア、使おうとしたときに混乱してしまうような洗濯機や乾燥機、広告によればなんでもできるというけれど、そのために何にもできないオーディオ―ステレオ―テレビ―ビデオ―カセット―レコーダー。 人の頭は、世の中のことを理解するように巧妙に作られている。ほんの少しの手がかりさえ与えられれば、自分で説明したり納得したり理解をしたりしながら、うまくやっていけるはずなのだ。私たちの毎日の生活の一部になっている本やラジオや台所の電化製品、オフィスの機械や電灯のスイッチなどを考えてみよう。よくデザインされたものは、容易に解釈したり理解したりすることができる。そういうものにはどう操作したらいいか目に見える手がかりがある。デザインの悪いものは使いにくいし使っているといらいらしてくる。そういうものには、手がかりがなかったり、場合によっては間違った手がかりがあったりして、利用者を間違わせたり、あたりまえの解釈や理解をじゃましたりする。まったく、なんとひどいデザインのものが多いことだろう。そのおかげで世の中は、いらいらの声、理解できないもの、誤りを引き起こしやすい機械などでいっぱいである。この本は、そのような状況を変えようとする試みである。 ・・・・・・ | ||