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「何も新しくはない」

酒井直樹さんへ

2001年9月11日の「事件」からすでに数カ月が過ぎました。日本のメディアに関するかぎり、「事件」とそれにつづく「戦争」についての報道は、徐々に、しかし確実に減りつつあります。それでもいま、例えばコソボで起こっていることにくらべれば、アフガニスタンで起こっていることの方を私たちがはるかによく知っていることに変わりはありません。
昨年暮れ、拙著(『三点確保』)を上梓するにあたって、「あとがき」を記そうとしながら、私はひとつの迷いに囚われていました。それはここであの「事件」について語るべきか、それともあたかも何も起こってはいないかのようにやり過ごしてしまうべきか、というものでした。結局私はそのどちらも実行する勇気がありませんでした。つまり、触れはするけれどそれについては何も語らないことを選んだのです。いや選んだのではない、何かを言いたかったにもかかわらず、人に向かって語るに値することを何も見いだせなかったという方が正確です。
そのことに今も大きな変化はありません。ただそれでも、その後、国連難民高等弁務官カブール事務所の山本芳幸氏の『戦争しか知らない子供たち』を読み、同時に、賛嘆の念を新たにしつつ鵜飼哲氏の『抵抗への招待』(とりわけ、そのなかの「戦争―内戦の黙示録と<病い>のレトリック」(1995.4))を読み返したことで、自分のなかにただ漠然としてあった思いが少しははっきりとした輪郭を持つようになりました。その思いとは、一言でいえば、9月11日を境として何かが決定的に変わったかのようにいう言説は欺瞞ではないのか、というものです。何度か目にしたこの「新しさ」の強調は、本当は隠されてはならないはずの、ある「古さ」を隠蔽することに役立ってしまっているのではないか。 少なくとも、アメリカによってアフガニスタンを舞台にその後に行われたことは、事態が本質的に反復であることを示しています。「新しさ」や「断絶」の強調は、もしそれが「事件」のスペクタクル的華々しさによる一過性の錯覚でなかったとすれば、アメリカの戦争遂行イデオロギーの一部にしか、そしてそれゆえにアメリカの政策に盲目的に追従する(あるいはそれを利用しての自衛隊の正真正銘の国軍化、戦時体制の構築をはかる)日本の体制の正当化の論拠にしかなりえないように思えます。だからこそ、あえて「何も新しくはない」というべきなのだと思います。
「ソ連・東欧『社会主義』圏の消滅と湾岸戦争以降、九〇年代の戦争の誘因はもはや『イデオロギー』ではなく、もっぱら『宗教』と『民族』に集約されるかのような言説が流通し、それに対する特効薬が大慌てで探し求められ、『国民国家』や、さらには『帝国』すらの『美点』が事新しく称揚されている。」鵜飼氏がこのように書いたのは、1995年のことでした。しかし私にとってさらに印象的だったのは、彼がそれにつづけておこなっている次のような確認なのです。「今世紀新たに戦争が勃発した時点で書かれたテクストをいくつか覗いてみれば、判で押したように『これはまともな戦争ではない』という絶望的な当惑にぶつかるが、エンツェンスベルガー、ボードリヤール、ヴィリリオといった人々がここ数年のあいだに戦争をめぐって発表した仕事もこの奇妙な系譜のうえにある。(...)その基本図式はかつての戦争(いつのことか?)にはある種の『健康さ』がまだ残っていたが今度の戦争ではそれが決定的に失われ、人類は手の施しようのない不治の『病』に陥ったというものである。つねに未知の相貌のもとに現れることはおそらく戦争というものの本質に属しているだろう。しかし、そのことと、この驚愕を頽落の図式で了解し、黙示録的な語調で描き出すこととは別のことである。」
「これはまともな戦争ではない。」たしかに、アメリカが9月11日をまさしく自身に向けられた宣戦布告と見なし、現在の事態を正戦の遂行であると言い立てているときに、そのように言うことがある正しさを持っていることを否定することはできません。その正しさを承認しつつも、しかし昨年秋から冬にかけて行われ、今もなお行われていることが、戦争以外の何ものでもないことは確認しておく必要があります。相手が主権国家であろうがなかろうが、こうした戦争をアメリカは久しい以前から繰り返してきたし、そしてなお忘れてならないのは、イスラエルがやはり久しくそれをパレスチナで繰り返しつづけていることです。私たちはそれを「まともな戦争」ではないから批判しなければならないのではなく、まさしく「戦争そのもの」でしかないからこそ反対しなければならない。私たちが望みうるいったいどんな「まともで」「健康な」戦争があるというのでしょうか。
いま私には、第一級の反動思想家、無原理へと反転しうるまでの原理主義者、カール・シュミットの述べたことが、異様なまでのアクチュアリティを取り戻しているように感じられます。二つの引用をしたいとおもいます。一つ目は鵜飼氏が前述の文章の中にシュミットの「獄中記」から引いているものです。 「内戦には独特の陰惨さがある。それは兄弟間の戦争である。なぜなら、それは敵をも包摂する共通の政治単位内の闘争であり、両陣営ともに共通の統一体に対し同時に絶対的肯定と絶対的否定をもって臨むからである。両者はともに敵を端的絶対の不法者と決めつけ、法の名において相手の法を否定する。敗者が敵の法的判断に服すること、これこそ内戦の必然的随伴現象である。このことこそ内戦と法の関係を緊密で特殊弁証法的なものにする。内戦の正義は独善の正義であり、かくて内戦は正戦、独善的正戦一般の原型となる。」
そうです、シュミットの観察が正しいならば、少なくとも「湾岸戦争」とアフガニスタンへの空爆は「内戦」以外のなにものでもありません。実際、イラクのフセイン政権の軍事的強化に狂奔したのが誰であるのか、タリバンを養育し、必要とあらば、アルカイダの同盟軍さえ支援してきたのは誰であるのかを考えてみるだけでこの戦争の本質は明らかです。
ところで内戦について上のように語ったシュミットは、自由主義と民主主義との両者がいかに異質な原理であるかを説いた、あの『現代議会主義の精神史的地位』の中で民主主義の本質について、すでに次のように書いていました。「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取り扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に、必要な場合には、異質的なものの排除ないし絶滅ということである。(...)すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである。」(第二版へのまえがき(1926)、稲葉素之訳)日本がとっくの昔に実現してしまっているこうした「民主主義」を、アメリカはこれから血道をあげて追求していくことになるでしょう。いうまでもなく、同質性の確保は敵の措定と表裏をなします。ブッシュは1月29日の一般教書演説の中で、ついに北朝鮮とイランとイラクとを名指しで「悪の枢軸」と呼びました。「もっとも破壊的な兵器を持つ、世界でもっとも危険な政権」がこのような遂行的発話をおこなったとき、それがどのような帰結を持つかは予断を許しません。

ほんのわずかの経験を通してですが、私は自分がどれほど政治的に愚鈍であることかを痛感してきました。いつもただ逡巡しているだけです。今回も、もし酒井さんからいただいたお便りに次のような文章を見出すことがなかったならば、何も書こうとは思わなかったことでしょう。ここでそれを引用することを許していただきたいと思います。「ますます悪い時代になってきました。世界中で、特に北米で、文明、人種、民族などという言葉が一人歩きをし、合州国の政府は強制収容所の準備を始めているように見えます。西洋を守るために強制収容所を作るということでしょうか。今度は誰が入れられるのでしょうか。その時、私は入れられる側にいるのか、入れる側にいるのか、それともそのような二分法を拒絶する姿勢のとり方はあるのか、などと色々と想像をたくましくしています。」酒井さんが自らに問いかけておられるこうした問いからは、世界のどこにいようとも逃れられるとは思えません。私もまた、答えが見つかるかどうかは別にして、自分に何ができるかを考えていきたいと思います。願わくはまだ多くの時間が残されていますように。
三点確保書影

2002年2月4日
山田広昭



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